教育方針2019 [独り言]
年を重ねてきたからか、夢を持てなくなったからか。
最近、自分のこれまでに学び得たものをどう後世に伝えればいいかを考える。
人にものを教える、伝える、というのは一つの高等技術と言っていいが、しかし誰も教えてはくれない。
遠慮し過ぎれば、何も伝わらないし、かと言って押し付けすぎると嫌がられるし、パワハラと言われかねない。
僕の座右の銘は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だ。
何事もバランスが大事だし、「ちょうどいい所」を見極めるのが大事だと思う。
でも結局、一発でそれを見定めるのは事実上不可能で、数々の失敗を重ねた末にそれが見えてくる。
最近よく考えるのは、子供の育て方、教育法。
彼女も結婚する予定も、教師になる予定もないんだけど、でも一番大切というか、一人の人間の人間性の土台というか根幹に大きな影響を与える部分なのは間違い無いと思う。
もし万が一、人の親になることがあれば、気をつけたい事を書いておこうと思う。
少なくとも現時点ではそう思うという事。
当事者になれば、感情移入が「過ぎ」て、意見が変わるかもしれないが、そこは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だ。
親では無い今の時点の冷静な状態で考えておくことは重要だと思った。
いつの日か当事者になった時にまた見直すのも面白いだろう。
すでに子育てをされている方にとっては、なんて思慮と想像力の足らない事だ、と思うかもしれないが、少なくとも現時点では本気でこう思っているので、一意見として温かい目で読んでいただけると幸いだ。
まずは箇条書きで。
・主従関係、上下関係は作らない。
・相談役に徹する。
・人生の舵は本人に握らせる。
・必ずreason whyを明確に伝える。
・必ずreason whyを聞いてあげる。
・居場所を作る、存在を肯定する。
こんな所かな。
以下に少し詳しく説明を書く。
・主従関係、上下関係は作らない。
自分の親もそうだったし、世の中に多いと思うのが、親と子で上下関係、酷い場合は主従関係を築いてしまうパターンだ。
我が子に全く興味がないってのもそれはそれで問題だが、しかし干渉や圧力、束縛が「過ぎる」のもどうかと思う。
これは学校においての先生と生徒、職場においての上司と部下の関係における勘違いにも同様に言える事だと思うが、それは今は関係ないので控える。
確かに子供は何もわからないし、親が面倒を見てあげないといけない。
知識や経験の差も歴然だ。
しかし同じ人間だ。
子供は親の所有物でも、ペットでも無い。
一人の人間だ。
たまに「育ててやってるんだから感謝しろ」的な親がいるが、そもそもお前が自分の都合や選択の上で、勝手に産み落としたのだろうが。
子が自然にそう思うならまだしも、親は子にそれを言える立場にはない。
さらに「親は子をしっかり躾けるべき」という考え方もあると思うが、「躾ける」という言い方が僕は好きではない。
本来のその言葉の意味はどうあれ、僕の中では「上位のものが下位のものを調教する」という意味に響く。すごく強い言葉だ。下手をしたらここに「上位のものに都合のいいように」という但し書きが加わるかもしれない。
生まれてから物心ついて文化的な生活ができるまでは、ある程度仕方がないのかもしれないが、親が子に施すべきなのは「教育」だ。
人として対等であるべきだし、築くべきはせめて上下関係ではなく、先輩後輩のような関係。人生の先輩という意味で。
親子だとどうしても踏み込み「過ぎ」てしまうことは多々あると思うけど、親だって子育てを通して学ぶべき事は多いはず。本来お互い様だ。
「親しき仲にも礼儀あり」と言うのはそう言うことを言っていると思うよ。
とにかく、力で押さえつけるのは危険だ。
その力が失われた時、どう転ぶか予想がつかない。
友好的に行こう。
・相談役に徹する。
・人生の舵は本人に握らせる。
この2つはまとめて書く。
「教育」の基本的なスタンスは「自分たち親、もしくは大人や導く者がいなくなっても、立派にたくましく生きていけるようにすること」だと思っている。
だから基本的に人生の舵は本人に握らせる必要があるし、親は既にある結論や常識を押し付けるのではなく、相談役に徹しアドバイスを送る程度にする。最終的な選択・決定は本人にさせるべき。
それでは失敗してしまうじゃないか。
皆さんはそう仰るかもしれないが、なぜ失敗をしてはいけないのか。
辛いこと、悲しいことを経験しないと人は前に進めない。
失敗や挫折が前に進むための足場になる。
成功体験は自信になり、前を向く活力にはなるが、それで前に進めるわけではない。
そもそも成功するためには失敗を重ねる必要がある。
と僕は考える。
もちろん誰だって失敗なんかしたくない。
だけど失敗をしないと何も学べない。
親が責任を取って尻拭いが出来るうちに、たくさん失敗をさせてあげる懐の深さが必要じゃないか。
まだ取り返しがつくうちにむしろどんどん失敗すべきだし、どうすれば成功できるのかを考えさせるべきだ。
「安心してチャレンジして来い。責任は取ってやるから。」
そう言ってあげられる親でありたい。
あとこれはイメージでしかないけど、親はGPS付きのカーナビであってはいけない気がする。
紙製の地図とか地図帳ぐらいであるべき。舵取りに合わせるなら海図か。
それくらい不便でないと子が成長しない。
GPS付きナビゲーションは便利「過ぎる」し
方角を示すだけのコンパスだけでは「及ばない」。
一番なりたくないのは子の人生をコントロールしようとする親、できると思っている親。
親の思う「我が子の幸せ」と子本人が思う「幸せ」とは必ずしも同じではない。
優先されるべきは本人の思う幸せだし、その結果悪い事が起きてもそれは本人の責任でしょ。
見てる方は辛いのかもしれないけど、子が死ぬまで親はずっと寄り添えるわけじゃないんだから。
・必ずreason whyを明確に伝える。
・必ずreason whyを聞いてあげる。
これもまとめて書くが、「とにかく従え!」という親も多いかもしれない。
「親の言うことに口答えするな」とかね。
日本は「悟る」文化だ。
それはそれで悪くはないと思う。
海外で「日本人はエスパーか何かなのかい?」と褒め言葉(?)をもらった経験もある。
何も言っていないのに、してほしいことがわかる。それは素晴らしい能力だ。
何も説明しなくても、何故なのかは、合ってるか合っていないかは別として、相手が勝手に補完してくれる。
しかしそこに甘えていないでしょうか。
結局相手が何を考えているかなど、言葉にしないとわからない。
そしてどういう意図でそういう発言、行動をしたかなんて、本人に聞かなきゃわからない。
なぜ、どうして?そこを省く人が多過ぎる。
言われた相手が「なんで?」って聞き返せればいいけど、そこに頼るな。
仮に聞いたとしてちゃんと答えるのか?
口答えするな!だろ?
黙って従え!じゃないか?
でも、変に誤解を生むくらいなら前もって理由を述べた方が早くないか?面倒くさいかもしれないけど。
それに相手は人間で、言葉が通じるはず。動物やペットじゃない。
相手を見くびりすぎだ。子供であっても一人の人間。
なぜこんなに厳しく口うるさく耳が痛いことを言うのか、きちんと説明すべき。
でないとこうこうこうなって、こうなっちゃうよ?だからこうしてね、こうしないでね。みたいな。
そこまで言ってちゃんと説明をしてるなら、その上で仮に言うこと聞いてくれなくても、最終的にその通りになれば、「ああ、言う通りだったな」「言うことを聞いておけばよかったな」って思うだろう。その先に信頼が生まれてくるはず。
そして聞く耳を持ってくれるようになるはず。
とにかく何でもかんでも一発で成功させようとし「過ぎ」なんだと思うよ。
なんども言うけど、失敗は排除するべきではない。
今すぐに立派な誰もが認める人間になれって言ったって無理でしょ。長い目で見て。辛いかもしれないけど。子を産んで育てるって決めたのはあなた自身なんだから。
そして何かしでかした時とか、人生の先輩から見て何か間違っているなとか納得できない、わからないなと思った時、単純に叱ったり否定するのではなく、まずは「何故そう考えたのか」と言うのは聞き出してあげるべきだ。
それによって印象が変わる可能性もあるし、どう言う思考回路なのかを知ることもできる。その上でアドバイスもできる。やっぱり間違ってる、受け入れられないなら徹底的に議論する。
そこで、どうしてなのか、なぜなのか、というプレゼン能力を鍛えることもできる。
それって今の時代一番重要な能力の一つでしょ。
極端な話、人を殺したって、世界中を納得させられるプレゼンができれば、刑は軽くなったり、免れたりするかもしれない。正当防衛だってそう言う事でしょ?
まぁそれはいいとして、reason whyを必ず示す。論理的に説明をする。説明をさせる。
これはその場でも必要な事だし、将来的にも必要な事だと考える。
とにかく家族会議じゃないけど、議論する場を設けてあげたい。
自分の意見を主張すること。
自分と違う考え方があるということ。
親も間違えるし絶対じゃないということ。
それを教えてあげたい。
思春期になると、そういうのは嫌がるかもしれないが、思春期をどう過ごしたかが、その後の人生、人間性、人格、価値観に及ぼす影響は甚大だと思っている。
・居場所を作る、存在を肯定する。
これが結局一番重要じゃないかな。
甘やかすという意味じゃない。何しても全部肯定するという意味じゃない。
ただ生まれてきたことに対して、自分は生まれてきて良かったのだろうか、なんて本人が疑問に思うようなことはさせたくない。
正直、僕は家に居場所はなかった。少なくとも僕はそう感じていた。
自分の部屋が出来てからはそことトイレとお風呂以外は常に何かに怯えていた。
親の前では、例えば可愛い子犬とか赤ちゃんとかが目の前いて、可愛いなと思ってもそれを表現できなかったし、笑いかけることすらできなかった。自然に振る舞う事ができないのだ。
何故だかは未だにわからないし、多分今も出来ない。
それがベースだから、外に出ても他人の目が極端に気になる子だった。
ただ周りに合わせるだけで、自分の主張や感情は押し殺した。
だから誰にも認められなかったし、肯定もされることもなかった。
そんな自分に価値を感じたことなどない。
自分が嫌い。
せめて家族だけでも味方であれば違ったかもしれないが、基本否定されたし、家でも外と似たようなもんだった。
実際にそれができたかどうかは置いといて、10代は「親に怒られない」様にすることに注力し、20代は「親に困らせない」様にしてきた。
それでなんの問題があるって言うかもしれないが、僕にとってはそれが苦痛で重荷だった。
その為に色々犠牲にしてきた。
だから少なくとも自分の子にはそういう思いをして欲しくない。
自分自身を好きになってもらいたい。
親と子である前に、良好な人間関係を築いていける様に努力していきたい。
そう考えた時に、以上に書いた事が必要かなと考えた次第であります。
未来の俺よ。
何でもかんでも否定するな。
犯罪だったり、人に迷惑をかけること以外はやらせてあげればいいと思う。
多様性を認めろ。
トライアンドエラーで本人が自分で学ばなければならない。
不安があれば、こうこうこういう不安や危険がある、とただ伝えればいい。
それをどう受け取るかは本人次第だ。
親のすべきことは
未成年のうちは、責任を取ることと、本人の思う幸せに導くこと。
成人してからは、見守ることと、節目節目や壁にぶち当たった時に頼ってきてくれるような緊急避難所や相談所であること。
それにはそれまでにどれだけの信頼関係が築けるかが重要。
そして一人の人間として認めて、信じてあげる事が大事。
これはお前の物語ではない。
彼・彼女の物語だ。
アーロンさんばりに「これはお前の物語だ!」と言ってあげたい。
最近、自分のこれまでに学び得たものをどう後世に伝えればいいかを考える。
人にものを教える、伝える、というのは一つの高等技術と言っていいが、しかし誰も教えてはくれない。
遠慮し過ぎれば、何も伝わらないし、かと言って押し付けすぎると嫌がられるし、パワハラと言われかねない。
僕の座右の銘は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だ。
何事もバランスが大事だし、「ちょうどいい所」を見極めるのが大事だと思う。
でも結局、一発でそれを見定めるのは事実上不可能で、数々の失敗を重ねた末にそれが見えてくる。
最近よく考えるのは、子供の育て方、教育法。
彼女も結婚する予定も、教師になる予定もないんだけど、でも一番大切というか、一人の人間の人間性の土台というか根幹に大きな影響を与える部分なのは間違い無いと思う。
もし万が一、人の親になることがあれば、気をつけたい事を書いておこうと思う。
少なくとも現時点ではそう思うという事。
当事者になれば、感情移入が「過ぎ」て、意見が変わるかもしれないが、そこは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だ。
親では無い今の時点の冷静な状態で考えておくことは重要だと思った。
いつの日か当事者になった時にまた見直すのも面白いだろう。
すでに子育てをされている方にとっては、なんて思慮と想像力の足らない事だ、と思うかもしれないが、少なくとも現時点では本気でこう思っているので、一意見として温かい目で読んでいただけると幸いだ。
まずは箇条書きで。
・主従関係、上下関係は作らない。
・相談役に徹する。
・人生の舵は本人に握らせる。
・必ずreason whyを明確に伝える。
・必ずreason whyを聞いてあげる。
・居場所を作る、存在を肯定する。
こんな所かな。
以下に少し詳しく説明を書く。
・主従関係、上下関係は作らない。
自分の親もそうだったし、世の中に多いと思うのが、親と子で上下関係、酷い場合は主従関係を築いてしまうパターンだ。
我が子に全く興味がないってのもそれはそれで問題だが、しかし干渉や圧力、束縛が「過ぎる」のもどうかと思う。
これは学校においての先生と生徒、職場においての上司と部下の関係における勘違いにも同様に言える事だと思うが、それは今は関係ないので控える。
確かに子供は何もわからないし、親が面倒を見てあげないといけない。
知識や経験の差も歴然だ。
しかし同じ人間だ。
子供は親の所有物でも、ペットでも無い。
一人の人間だ。
たまに「育ててやってるんだから感謝しろ」的な親がいるが、そもそもお前が自分の都合や選択の上で、勝手に産み落としたのだろうが。
子が自然にそう思うならまだしも、親は子にそれを言える立場にはない。
さらに「親は子をしっかり躾けるべき」という考え方もあると思うが、「躾ける」という言い方が僕は好きではない。
本来のその言葉の意味はどうあれ、僕の中では「上位のものが下位のものを調教する」という意味に響く。すごく強い言葉だ。下手をしたらここに「上位のものに都合のいいように」という但し書きが加わるかもしれない。
生まれてから物心ついて文化的な生活ができるまでは、ある程度仕方がないのかもしれないが、親が子に施すべきなのは「教育」だ。
人として対等であるべきだし、築くべきはせめて上下関係ではなく、先輩後輩のような関係。人生の先輩という意味で。
親子だとどうしても踏み込み「過ぎ」てしまうことは多々あると思うけど、親だって子育てを通して学ぶべき事は多いはず。本来お互い様だ。
「親しき仲にも礼儀あり」と言うのはそう言うことを言っていると思うよ。
とにかく、力で押さえつけるのは危険だ。
その力が失われた時、どう転ぶか予想がつかない。
友好的に行こう。
・相談役に徹する。
・人生の舵は本人に握らせる。
この2つはまとめて書く。
「教育」の基本的なスタンスは「自分たち親、もしくは大人や導く者がいなくなっても、立派にたくましく生きていけるようにすること」だと思っている。
だから基本的に人生の舵は本人に握らせる必要があるし、親は既にある結論や常識を押し付けるのではなく、相談役に徹しアドバイスを送る程度にする。最終的な選択・決定は本人にさせるべき。
それでは失敗してしまうじゃないか。
皆さんはそう仰るかもしれないが、なぜ失敗をしてはいけないのか。
辛いこと、悲しいことを経験しないと人は前に進めない。
失敗や挫折が前に進むための足場になる。
成功体験は自信になり、前を向く活力にはなるが、それで前に進めるわけではない。
そもそも成功するためには失敗を重ねる必要がある。
と僕は考える。
もちろん誰だって失敗なんかしたくない。
だけど失敗をしないと何も学べない。
そもそも我々は、多くの先人たちの途方もない位のたくさんの過ちの上に立って生きている。
親が責任を取って尻拭いが出来るうちに、たくさん失敗をさせてあげる懐の深さが必要じゃないか。
まだ取り返しがつくうちにむしろどんどん失敗すべきだし、どうすれば成功できるのかを考えさせるべきだ。
「安心してチャレンジして来い。責任は取ってやるから。」
そう言ってあげられる親でありたい。
あとこれはイメージでしかないけど、親はGPS付きのカーナビであってはいけない気がする。
紙製の地図とか地図帳ぐらいであるべき。舵取りに合わせるなら海図か。
それくらい不便でないと子が成長しない。
GPS付きナビゲーションは便利「過ぎる」し
方角を示すだけのコンパスだけでは「及ばない」。
頼りない両親の場合、子供がしっかりしていることがよくあると思うが、程よく不便だからだろう。
一番なりたくないのは子の人生をコントロールしようとする親、できると思っている親。
親の思う「我が子の幸せ」と子本人が思う「幸せ」とは必ずしも同じではない。
優先されるべきは本人の思う幸せだし、その結果悪い事が起きてもそれは本人の責任でしょ。
見てる方は辛いのかもしれないけど、子が死ぬまで親はずっと寄り添えるわけじゃないんだから。
困難を乗り越える強い心を育てなければ。
・必ずreason whyを明確に伝える。
・必ずreason whyを聞いてあげる。
これもまとめて書くが、「とにかく従え!」という親も多いかもしれない。
「親の言うことに口答えするな」とかね。
日本は「悟る」文化だ。
それはそれで悪くはないと思う。
海外で「日本人はエスパーか何かなのかい?」と褒め言葉(?)をもらった経験もある。
何も言っていないのに、してほしいことがわかる。それは素晴らしい能力だ。
何も説明しなくても、何故なのかは、合ってるか合っていないかは別として、相手が勝手に補完してくれる。
しかしそこに甘えていないでしょうか。
結局相手が何を考えているかなど、言葉にしないとわからない。
そしてどういう意図でそういう発言、行動をしたかなんて、本人に聞かなきゃわからない。
なぜ、どうして?そこを省く人が多過ぎる。
言われた相手が「なんで?」って聞き返せればいいけど、そこに頼るな。
仮に聞いたとしてちゃんと答えるのか?
口答えするな!だろ?
黙って従え!じゃないか?
でも、変に誤解を生むくらいなら前もって理由を述べた方が早くないか?面倒くさいかもしれないけど。
それに相手は人間で、言葉が通じるはず。動物やペットじゃない。
相手を見くびりすぎだ。子供であっても一人の人間。
なぜこんなに厳しく口うるさく耳が痛いことを言うのか、きちんと説明すべき。
でないとこうこうこうなって、こうなっちゃうよ?だからこうしてね、こうしないでね。みたいな。
そこまで言ってちゃんと説明をしてるなら、その上で仮に言うこと聞いてくれなくても、最終的にその通りになれば、「ああ、言う通りだったな」「言うことを聞いておけばよかったな」って思うだろう。その先に信頼が生まれてくるはず。
そして聞く耳を持ってくれるようになるはず。
とにかく何でもかんでも一発で成功させようとし「過ぎ」なんだと思うよ。
なんども言うけど、失敗は排除するべきではない。
今すぐに立派な誰もが認める人間になれって言ったって無理でしょ。長い目で見て。辛いかもしれないけど。子を産んで育てるって決めたのはあなた自身なんだから。
そして何かしでかした時とか、人生の先輩から見て何か間違っているなとか納得できない、わからないなと思った時、単純に叱ったり否定するのではなく、まずは「何故そう考えたのか」と言うのは聞き出してあげるべきだ。
それによって印象が変わる可能性もあるし、どう言う思考回路なのかを知ることもできる。その上でアドバイスもできる。やっぱり間違ってる、受け入れられないなら徹底的に議論する。
そこで、どうしてなのか、なぜなのか、というプレゼン能力を鍛えることもできる。
それって今の時代一番重要な能力の一つでしょ。
極端な話、人を殺したって、世界中を納得させられるプレゼンができれば、刑は軽くなったり、免れたりするかもしれない。正当防衛だってそう言う事でしょ?
まぁそれはいいとして、reason whyを必ず示す。論理的に説明をする。説明をさせる。
これはその場でも必要な事だし、将来的にも必要な事だと考える。
とにかく家族会議じゃないけど、議論する場を設けてあげたい。
自分の意見を主張すること。
自分と違う考え方があるということ。
親も間違えるし絶対じゃないということ。
それを教えてあげたい。
思春期になると、そういうのは嫌がるかもしれないが、思春期をどう過ごしたかが、その後の人生、人間性、人格、価値観に及ぼす影響は甚大だと思っている。
・居場所を作る、存在を肯定する。
これが結局一番重要じゃないかな。
甘やかすという意味じゃない。何しても全部肯定するという意味じゃない。
ただ生まれてきたことに対して、自分は生まれてきて良かったのだろうか、なんて本人が疑問に思うようなことはさせたくない。
正直、僕は家に居場所はなかった。少なくとも僕はそう感じていた。
自分の部屋が出来てからはそことトイレとお風呂以外は常に何かに怯えていた。
親の前では、例えば可愛い子犬とか赤ちゃんとかが目の前いて、可愛いなと思ってもそれを表現できなかったし、笑いかけることすらできなかった。自然に振る舞う事ができないのだ。
何故だかは未だにわからないし、多分今も出来ない。
それがベースだから、外に出ても他人の目が極端に気になる子だった。
ただ周りに合わせるだけで、自分の主張や感情は押し殺した。
だから誰にも認められなかったし、肯定もされることもなかった。
そんな自分に価値を感じたことなどない。
自分が嫌い。
せめて家族だけでも味方であれば違ったかもしれないが、基本否定されたし、家でも外と似たようなもんだった。
実際にそれができたかどうかは置いといて、10代は「親に怒られない」様にすることに注力し、20代は「親に困らせない」様にしてきた。
それでなんの問題があるって言うかもしれないが、僕にとってはそれが苦痛で重荷だった。
その為に色々犠牲にしてきた。
だから少なくとも自分の子にはそういう思いをして欲しくない。
自分自身を好きになってもらいたい。
親と子である前に、良好な人間関係を築いていける様に努力していきたい。
そう考えた時に、以上に書いた事が必要かなと考えた次第であります。
未来の俺よ。
何でもかんでも否定するな。
犯罪だったり、人に迷惑をかけること以外はやらせてあげればいいと思う。
多様性を認めろ。
トライアンドエラーで本人が自分で学ばなければならない。
不安があれば、こうこうこういう不安や危険がある、とただ伝えればいい。
それをどう受け取るかは本人次第だ。
親のすべきことは
未成年のうちは、責任を取ることと、本人の思う幸せに導くこと。
成人してからは、見守ることと、節目節目や壁にぶち当たった時に頼ってきてくれるような緊急避難所や相談所であること。
それにはそれまでにどれだけの信頼関係が築けるかが重要。
そして一人の人間として認めて、信じてあげる事が大事。
これはお前の物語ではない。
彼・彼女の物語だ。
アーロンさんばりに「これはお前の物語だ!」と言ってあげたい。
ドランゴンボール超・ブロリー [感想・レビュー]
ここ1週間で映画を2本見た。
「ドラゴンボール超・ブロリー」
「マスカレード・ホテル」
上記の2本だ。
いずれも絶賛公開中なので、あまり多くはかけないけれど面白かった。
今回はドラゴンボールに関してだけど、一言で言うと
「やりたい放題だな!!」
って感じ。
これ作ったスタッフは楽しかっただろうなって思う。
「神と神」「復活のF」そして今回の「ブロリー」は原作者・鳥山明さんが脚本を書いてるそうなので、本来の鳥山明節が惜しみなく出てる。
「本来の」と書いたのは、元々ギャグ漫画家だからだ。
ドラゴンボールみたいなバトル漫画もいいけど、元々は「アラレちゃん」とかああ言うのを描くのが好きな人らしいから、そういう意味で「本来の」鳥山明節。
え、フリーザさんそんなキャラだっけ?みたいな。
敵味方問わずコミカルで、善と悪という区切りでは最早なくなって居るのが、確かに最近のバトル漫画の風潮でもある。
ブロリーと言えば、映画オリジナルキャラクターで、
3度もZ戦士達を絶望に叩き落とした、
最強で最凶で、悟空(というかカカロット)と因縁の深い悪魔、伝説の超サイヤ人。
数々のドラゴンボールのキャラクターの中で、3本の指に入るくらい好きなキャラだ。
しかし原作やアニメ本編には登場しないので、正史扱いの今回の映画に登場するブロリーが正式なブロリーということになった。
なので今後二度とあの悪魔なブロリーは関連作品からも姿を消すだろうから、彼は名実ともに死んでしまったが、新たなターザン的な野生児ブロリーもまぁ悪くは無い。
神やら赤髪やら青髪やらインフレが著しい中、ブロリー最強伝説が守られたことは素直にとっても嬉しい。
※合体・ポタラ・フュージョンは除く
今回の映画で素晴らしいところは、戦いっぱなし。
ほぼ全編バトル。そしてちょいちょい挟まれるギャグパート。
1時間に渡ってブロリーにボコられるフリーザとか笑笑
通常から超サイヤ人、超サイヤ人ゴット、超サイヤ人ブルーと変身する描写も丁寧。
フリーザとサイヤ人の関係性、惑星ベジータ及びサイヤ人滅亡をより詳しく描写している所とか。
バーダック一家のこととか。
とにかく見所しかない。
バトル中でかかるBGMがクセが強くて若干うざいけど笑
是非見てください。
「ドラゴンボール超・ブロリー」
「マスカレード・ホテル」
上記の2本だ。
いずれも絶賛公開中なので、あまり多くはかけないけれど面白かった。
今回はドラゴンボールに関してだけど、一言で言うと
「やりたい放題だな!!」
って感じ。
これ作ったスタッフは楽しかっただろうなって思う。
「神と神」「復活のF」そして今回の「ブロリー」は原作者・鳥山明さんが脚本を書いてるそうなので、本来の鳥山明節が惜しみなく出てる。
「本来の」と書いたのは、元々ギャグ漫画家だからだ。
ドラゴンボールみたいなバトル漫画もいいけど、元々は「アラレちゃん」とかああ言うのを描くのが好きな人らしいから、そういう意味で「本来の」鳥山明節。
え、フリーザさんそんなキャラだっけ?みたいな。
敵味方問わずコミカルで、善と悪という区切りでは最早なくなって居るのが、確かに最近のバトル漫画の風潮でもある。
ブロリーと言えば、映画オリジナルキャラクターで、
3度もZ戦士達を絶望に叩き落とした、
最強で最凶で、悟空(というかカカロット)と因縁の深い悪魔、伝説の超サイヤ人。
数々のドラゴンボールのキャラクターの中で、3本の指に入るくらい好きなキャラだ。
しかし原作やアニメ本編には登場しないので、正史扱いの今回の映画に登場するブロリーが正式なブロリーということになった。
なので今後二度とあの悪魔なブロリーは関連作品からも姿を消すだろうから、彼は名実ともに死んでしまったが、新たなターザン的な野生児ブロリーもまぁ悪くは無い。
神やら赤髪やら青髪やらインフレが著しい中、ブロリー最強伝説が守られたことは素直にとっても嬉しい。
※合体・ポタラ・フュージョンは除く
今回の映画で素晴らしいところは、戦いっぱなし。
ほぼ全編バトル。そしてちょいちょい挟まれるギャグパート。
1時間に渡ってブロリーにボコられるフリーザとか笑笑
通常から超サイヤ人、超サイヤ人ゴット、超サイヤ人ブルーと変身する描写も丁寧。
フリーザとサイヤ人の関係性、惑星ベジータ及びサイヤ人滅亡をより詳しく描写している所とか。
バーダック一家のこととか。
とにかく見所しかない。
バトル中でかかるBGMがクセが強くて若干うざいけど笑
是非見てください。
マスカレード・ホテル [感想・レビュー]
劇場公開初日に東野圭吾の小説が原作の「マスカレード・ホテル」を観た。
刑事もの、といかミステリー?ものなので、ネタバレを避けながら書くとほとんど書けることは無くなってしまうのだが、ただ一つ言えることは、
ホテルマンの、ひいてはサービス業の大変さをこの映画を見て改めて知ってほしい!!ということ。
もちろん大袈裟だったり誇張している部分は多少あるだろうけど、しかし大体あんな感じだ。
ほんとーにいろんな客、、、お客様がいる。
もちろんすごくこちらに気を使ってくれる、手のかからない、というかむしろ助けてくれるお客様もいれば、一方で無理難題をふっかけて足元見ようと企むお客様もいる。
しかし
「ルールはお客様が決めるものです。(中略)お客様がルールブックなのです。だからお客様がルール違反を犯すことはありえないし、私たちはそのルールに従わなければなりません。絶対に」
『マスカレード・ホテル』東野圭吾より
一流と言われる所ほど、お客様は絶対。
まさに神さま、仏様、王様。
超一流になってくると、客層がいいというか、お客様の心が広すぎて、人柄が良すぎて、それで全然問題はないんだけど、一流くらいだと中途半端な方々も混ざって来るから、彼らの我儘に悩まされる事になる。
ほらヤクザもさ、上の人たちはちゃんと礼儀をわきまえているけど、問題を起こすのはいつも下っ端か、中途半端に権力持ったチンピラじゃん?
そんな感じ。。。。なのか?
まぁいいや。
我々ホテルマンが、お客様にへいこら頭を垂れている分には問題ない、こっちが耐えればいいだけの話だから、しかし一番困るのがお客様同士のいざこざ。それぞれがそれぞれのルールを持ち出して、それがぶつかって来ると困っちゃう。誰の肩持ちゃいいのって。
加えてそこにホテルを経営する会社、我々の雇い主が我々に強いるルールも絡んで来るとどうしようもない。
ハラスメント、ハラスメントとTVをつければワイドショーやリーガルドラマで叫ばれていて、ある意味ハラスメントブームのこのご時世を、完全に逆行している。
今の時代サービス業において、お客様と従業員じゃパワーバランス的にお客様が圧倒的に優位。
そうなって来ると、悪意を持って(仮にそんなつもりが無くても)客であるという立場を利用して権力を振りかざして無理を通そうとすれば、それは立派なパワハラだ。
しかしイメージが大切なサービス業において、お客様をパワハラで訴えるなどもってのほか。
個人的にはどんどん訴えるべきだと思うけれども。
もう極端な話、社会には奴隷が必要だけど、奴隷なんて作ったら炎上しちゃうから、金を払うから奴隷役やってね、っていってるようなもんだよね。
精神的にも肉体的にも負荷の重い奴隷役なんてやらせるなら、もっと金を払えって話だよ。
限界を超えて、それほど死ぬ思いをしてまで頑張っている人を崇め讃えるふざけた価値観を持つ日本人よ目を覚ませ。
騙されてるぞ。
その頑張りに対して十分な対価はもらったのか。
無報酬の美学など捨ててしまえ。
日本人はやりすぎだ。
「お客様は神様」なんてもう死語だろ。
そんなのお客様がもうちょっと可愛らしかったというか、双方がリスペクトし合ってるというか、人情味あふれる方々ばかりだった頃の話だろ。
お客様はお客様。それ以上でもそれ以下でもない。
って自分がやってる職業をディスっても虚しいだけだな。
でもほんとどうかしてると思うよ。
現状は“そういうもの”と納得するしかないが、誰も心の底では納得してない。
無理やり「一流の接客」「一流の誇り」ってものに置き換えて見ないようにしてるだけ。
話はとても面白かったのだけど、そんな感じでちょっと変な所感情移入しすぎちゃった笑笑
そして「一流の対応」をしたばっかりに、最後あのオチだからね。
ちょっと東野さん、あんた一流ホテル、ディスってる?
一流(笑)、みたいな。
でも、序盤から散りばめられていた伏線が、どんどん回収されていくところなんかは、とっても爽快で、見事って感じ。
そして最初は反発していた、というかホテルマンの仕事をほとんどバカにしていたキムタク演じる新田刑事が、長澤まさみ演じる一流ホテルマンの山岸の仕事ぶりに徐々に感化されて、誰もが認める一端のホテルマンになっていくところなんかは、認められたというか、常日頃の頑張りが報われたような気がしました。
「疑うことが刑事の仕事なら、お客様を信じるのがホテルマンの仕事です!!」
とまぁ、なんのこっちゃ?って感じのレビューになりましたが、みなさま、面白いので是非是非劇場に足をお運びください。(説得力なし笑)
ちなみにマスカレード(masquerade)とは、「見せかけ、虚構、仮面舞踏会」という意味だそうです。
「ホテルに来るお客様は皆、『お客様』という仮面を被っている。そして我々ホテルマンは決してその仮面の中身を覗こうとはしない。ホテルにお越しいただいた皆様に心置きなく仮面舞踏会を楽しんでもらうのが我々の仕事だ」的なことを言ってたような気がする。
お忍び不倫カップルとか普通に居るからね。
とはいえ正直あまりピンとこなかったけど、それはホテルではなく、日本社会のことを指しているのではないか、と思った。
この国の社会はまさにマスカレード・ソサイエティじゃないのかと思った。
と上手いこと言ったところで以上、みなさまお気をつけて、いってらっしゃいませ。
刑事もの、といかミステリー?ものなので、ネタバレを避けながら書くとほとんど書けることは無くなってしまうのだが、ただ一つ言えることは、
ホテルマンの、ひいてはサービス業の大変さをこの映画を見て改めて知ってほしい!!ということ。
もちろん大袈裟だったり誇張している部分は多少あるだろうけど、しかし大体あんな感じだ。
ほんとーにいろんな客、、、お客様がいる。
もちろんすごくこちらに気を使ってくれる、手のかからない、というかむしろ助けてくれるお客様もいれば、一方で無理難題をふっかけて足元見ようと企むお客様もいる。
しかし
「ルールはお客様が決めるものです。(中略)お客様がルールブックなのです。だからお客様がルール違反を犯すことはありえないし、私たちはそのルールに従わなければなりません。絶対に」
『マスカレード・ホテル』東野圭吾より
一流と言われる所ほど、お客様は絶対。
まさに神さま、仏様、王様。
超一流になってくると、客層がいいというか、お客様の心が広すぎて、人柄が良すぎて、それで全然問題はないんだけど、一流くらいだと中途半端な方々も混ざって来るから、彼らの我儘に悩まされる事になる。
ほらヤクザもさ、上の人たちはちゃんと礼儀をわきまえているけど、問題を起こすのはいつも下っ端か、中途半端に権力持ったチンピラじゃん?
そんな感じ。。。。なのか?
まぁいいや。
我々ホテルマンが、お客様にへいこら頭を垂れている分には問題ない、こっちが耐えればいいだけの話だから、しかし一番困るのがお客様同士のいざこざ。それぞれがそれぞれのルールを持ち出して、それがぶつかって来ると困っちゃう。誰の肩持ちゃいいのって。
加えてそこにホテルを経営する会社、我々の雇い主が我々に強いるルールも絡んで来るとどうしようもない。
ハラスメント、ハラスメントとTVをつければワイドショーやリーガルドラマで叫ばれていて、ある意味ハラスメントブームのこのご時世を、完全に逆行している。
今の時代サービス業において、お客様と従業員じゃパワーバランス的にお客様が圧倒的に優位。
そうなって来ると、悪意を持って(仮にそんなつもりが無くても)客であるという立場を利用して権力を振りかざして無理を通そうとすれば、それは立派なパワハラだ。
しかしイメージが大切なサービス業において、お客様をパワハラで訴えるなどもってのほか。
もう極端な話、社会には奴隷が必要だけど、奴隷なんて作ったら炎上しちゃうから、金を払うから奴隷役やってね、っていってるようなもんだよね。
精神的にも肉体的にも負荷の重い奴隷役なんてやらせるなら、もっと金を払えって話だよ。
限界を超えて、それほど死ぬ思いをしてまで頑張っている人を崇め讃えるふざけた価値観を持つ日本人よ目を覚ませ。
騙されてるぞ。
その頑張りに対して十分な対価はもらったのか。
無報酬の美学など捨ててしまえ。
日本人はやりすぎだ。
「お客様は神様」なんてもう死語だろ。
そんなのお客様がもうちょっと可愛らしかったというか、双方がリスペクトし合ってるというか、人情味あふれる方々ばかりだった頃の話だろ。
お客様はお客様。それ以上でもそれ以下でもない。
って自分がやってる職業をディスっても虚しいだけだな。
でもほんとどうかしてると思うよ。
現状は“そういうもの”と納得するしかないが、誰も心の底では納得してない。
無理やり「一流の接客」「一流の誇り」ってものに置き換えて見ないようにしてるだけ。
話はとても面白かったのだけど、そんな感じでちょっと変な所感情移入しすぎちゃった笑笑
そして「一流の対応」をしたばっかりに、最後あのオチだからね。
ちょっと東野さん、あんた一流ホテル、ディスってる?
一流(笑)、みたいな。
でも、序盤から散りばめられていた伏線が、どんどん回収されていくところなんかは、とっても爽快で、見事って感じ。
そして最初は反発していた、というかホテルマンの仕事をほとんどバカにしていたキムタク演じる新田刑事が、長澤まさみ演じる一流ホテルマンの山岸の仕事ぶりに徐々に感化されて、誰もが認める一端のホテルマンになっていくところなんかは、認められたというか、常日頃の頑張りが報われたような気がしました。
「疑うことが刑事の仕事なら、お客様を信じるのがホテルマンの仕事です!!」
とまぁ、なんのこっちゃ?って感じのレビューになりましたが、みなさま、面白いので是非是非劇場に足をお運びください。(説得力なし笑)
ちなみにマスカレード(masquerade)とは、「見せかけ、虚構、仮面舞踏会」という意味だそうです。
「ホテルに来るお客様は皆、『お客様』という仮面を被っている。そして我々ホテルマンは決してその仮面の中身を覗こうとはしない。ホテルにお越しいただいた皆様に心置きなく仮面舞踏会を楽しんでもらうのが我々の仕事だ」的なことを言ってたような気がする。
お忍び不倫カップルとか普通に居るからね。
とはいえ正直あまりピンとこなかったけど、それはホテルではなく、日本社会のことを指しているのではないか、と思った。
この国の社会はまさにマスカレード・ソサイエティじゃないのかと思った。
と上手いこと言ったところで以上、みなさまお気をつけて、いってらっしゃいませ。
毒と薬。 [好きなもの]
遅ればせながら、あけましておめでとうございました。
2019年の抱負は「素直」です。2月からまた上京し、東京編第2弾が始まります。
よろしくお願いします。
ということで、素直に包み隠さず、久しぶりに自分の好きなモノの話をしようと思います。
皆さんは「I”s」という漫画はご存知でしょうか。
「I”s(あいず)」とは、『週刊少年ジャンプ』において、1997年19号から2000年24号まで連載されていた、桂正和大先生の大人気漫画です。単行本はジャンプ・コミックスより全15巻。完全版がヤングジャンプ・コミックスより全12巻。累計発行部数は1000万部以上。wikipediaより
沢山の青少年に性の目覚めを促した伝説的なコミックです。
な、な、なんと!!その「I”s」がBSスカパー!にてついに実写ドラマ化されています!!
公式サイトはこちら
昨今、沢山の漫画原作の実写映画・ドラマが制作されています。
実写化についてはその度に賛否が分かれます。ついにその波が、あの「I”s」にまで及んだわけです。
そのことを知った時は、嬉しいような、そっとしておいて欲しいような、複雑な気持ちでした。
でもYouTubeなどで公式から公開されている各キャストのイメージ動画や本編予告を見る限り、悪くはない、というか結構クオリティ高いんじゃなかろうか。ちゃんと最後まで描き切ってくれるっぽいし。
とくに「いつき」「寺谷」「ヒゲミ」「ナミ」あたりの再現度が激高い。
主人公の「一貴」に関しては、原作では結構整った顔立ちしてるから、もうちょっと何とかならなかったのかとは思ったが、まぁ慣れれば問題ない程度じゃないかな。
でも、4人いるヒロインのうち「いつき」「泉」「藍子」が一貴に興味を持って、惹かれていく場面はある程度描写されてるけど、メインヒロインの「伊織」に関してはそう言ったキッカケ的なものは描写されて無いから、一貴がそうだったように、個人的に伊織も一目惚れというか、一番リアルで自然な「単純に見た目がタイプだったから」好きになった、興味を持ったということで納得してたんだけど、見た目が個性的なあの俳優さんの場合はしっくりこないというか、なんか伊織が実写ver.の一貴に興味を持ち始めるキッカケってのを改めて新規で描いてくれると、原作の補完にもなるし、納得できるんだけどなぁって勝手に偉そうに思ってる。だって物語が始まるまで、一貴と伊織の間には絡みはほぼ無かったはずだから、そこんとこ気になるよね。
確か、ドラマは全13話くらいで、現時点で4話まで放送されている。
とにかくとっても観たい。
しかし、スカパー!契約せんと観られへんねん!!(T ^ T)
なんでNetflixとかAmazonPrimeとかその他動画配信サイトじゃないの!!
すごくガッカリ。
じつはYouTubeに3話まで上がってたから(もう削除されたが)なんとか観られたんだけど、4話が観たい( ; ; )
観たい。
でも観られない。
このジレンマを満たすためにまた久し振りに原作全巻読んでしまった。
通常盤全15巻、完全版全12巻全部持ってるからな。
というか実は、俺の本棚の一角に「桂正和コーナー」がある。
「I”s」はもちろんのこと、「電影少女」「ZETMAN」「シャドウレディ」「D・N・A2」「旧ZETMAN」などなど。
桂正和先生は女の子の尻を書かせたら世界一と言われる男だ。
桂正和作品のいいところは、思春期の恋愛において特に欠かせないエロをちゃんと書いてくれる所だ。
少年漫画においては、それが不自然に取り除かれてしまって不自然に綺麗なものになってしまうが、桂先生の作品ではちゃんと当たり前のようにそこにあるから良いのだ。
大人の恋愛にももちろん欠かせないけど。
そもそもエロ=悪・タブーとしてしまっている日本社会が悪い!!それも極端にね。
我々はそのエロから産まれた存在であるにもかかわらず。
話が逸れた。
しかしまぁ思春期の青少年にはぶっちゃけ毒だ。
あの頃は読んでいることがバレたら、死を覚悟しなければならないほどだったから、こっそり集めていたな。ブックオフとかで笑
懐かしい。
思春期は、純粋さとエロが同時に存在できる、奇跡のような時期だった。
各世代に必ずといって良いほどあったであろう、少年誌に載っているエロい漫画。
俺の世代は『I”s』だった。
つい最近で言えば、ToLoveる的なやつ?
これすらも古いか。今はなんなんだろう。
しかし言い訳をさせてもらえれば、桂正和作品はエロい以上に登場人物が純粋でいい子達ばかりで、ストーリーもハラハラドキドキで切なくて泣けるのだ。
風が吹いても勃っていたあの頃の自分にとっては『毒』だったが、絵ではもはや勃たなくなった大人の自分にとってはその純粋で甘酸っぱい物語はむしろ『薬』なのだ。
心が現れるというか、洗われるというか。
読み返すたびに、人を信じることの大切さ、相手を思いやる心を思い出すわけさ。
何回読んだかわからないけど、未だにやっぱりラストは泣けました。
とは言え根本的な解決にはなっていないわけで。
実写ドラマ「I”s」は依然観られない。
そんなこんなで悶々としていると、YouTubeのI”s関連動画のコメント欄に
「電影少女は残念な出来だったけど、これは期待できそう」
的なことが書いてあるのを見つけて、それで知ったんだけど、どうやら電影少女も最近実写化されたらしい。
調べたら、『電影少女2018』だって。
去年じゃん!イギリスに行っている間にそんな事が??!
どうやらAmazonPrimeで観られるみたい!やったー٩( ᐛ )وってんで、早速見た。
一気見した。I”sの代替とばかりにね。
あい役の乃木坂46・西野七瀬さんの大根っぷりが不評を買っていたみたいだけど、正直別に気にならなかった。
むしろ、ちゃんと原作の良さを理解している人、というか好きな人が大切に作り上げた作品なんだなって、作品愛がすごく感じられて嬉しかった。
一応第1話のあらすじをば。
ごく普通の高校生・弄内翔(野村周平)は、親の離婚を機に、絵本作家の叔父・弄内洋太(戸次重幸)の空き家で一人暮らしを始める。学校生活では、翔は同じクラスのマドンナ・柴原奈々美(飯豊まりえ)に恋心を抱いていた。しかし奈々美が想っているのは、翔の親友・古矢智章(清水尋也)。翔の気持ちを知る智章は、奈々美の想いに気づかないふりをしていた。 そんな複雑な恋模様にモヤモヤしていた夜。突然、クローゼットの中から物音が聞こえる。気になって扉を開けると、1本のビデオテープと故障したビデオデッキが…。しかもビデオデッキにはVHSが入ったまま。翔は、デッキを直して再生すると、流れて来たのは天野アイ(西野七瀬)と名乗る女の子の映像。しかも突然、画面から中から飛び出してきて…!翔とビデオガール・アイの3ヶ月に及ぶ奇妙な共同生活が始まる。 (C) 『電影少女 2018』製作委員会
今回の『電影少女2018』は2018とタイトルにあるように、現代を舞台にしたリブート作品だった。
ストーリーは原作をある程度踏襲しつつ、原作の出来事は25年前の過去のこと、ということにして同じ時間軸上に置いて新たなストーリーを紡ぎ出している。ちょうど2006年に細田守監督が手がけたアニメ映画『時をかける少女』のような感じだ。
原作と直接的なつながりがあるというのがとても驚きであり、嬉しい部分でもあった。
原作のメインキャラである「洋太」「もえみ」「貴志」の代わりに、現代の若者3人と「天野あい」が繰り広げる新たな4角関係。90年代と今との価値観や文化の違いをうまく取り入れていて、良い意味で予想を裏切る、また新しい「電影少女」がそこにはあった。
何より貴志やもえみでなく、あそこに「夏美」をブッ込んでくる辺りが卑怯というか、よく分かってるというか、涙腺大崩壊。なぜ酷評されているのか分からないくらい、本当に良かった。
原作を知らない人も純粋に楽しめるはず。
原作を知ってる人にとっても、え、これどうなるの?って先の展開が読めないし、知ってるからこそより楽しめる内容になっている。
興味が出た方は是非AmazonPrimeへ!!
全12話!!
是非原作も読んで観てくだされ!
以上自己満足の投稿でした。
スカパー!契約しようかなぁ。。。。
※Amazon並びに、スカパー!の回し者ではございません。
2019年の抱負は「素直」です。2月からまた上京し、東京編第2弾が始まります。
よろしくお願いします。
ということで、素直に包み隠さず、久しぶりに自分の好きなモノの話をしようと思います。
皆さんは「I”s」という漫画はご存知でしょうか。
「I”s(あいず)」とは、『週刊少年ジャンプ』において、1997年19号から2000年24号まで連載されていた、桂正和大先生の大人気漫画です。単行本はジャンプ・コミックスより全15巻。完全版がヤングジャンプ・コミックスより全12巻。累計発行部数は1000万部以上。wikipediaより
沢山の青少年に性の目覚めを促した伝説的なコミックです。
な、な、なんと!!その「I”s」がBSスカパー!にてついに実写ドラマ化されています!!
公式サイトはこちら
昨今、沢山の漫画原作の実写映画・ドラマが制作されています。
実写化についてはその度に賛否が分かれます。ついにその波が、あの「I”s」にまで及んだわけです。
そのことを知った時は、嬉しいような、そっとしておいて欲しいような、複雑な気持ちでした。
でもYouTubeなどで公式から公開されている各キャストのイメージ動画や本編予告を見る限り、悪くはない、というか結構クオリティ高いんじゃなかろうか。ちゃんと最後まで描き切ってくれるっぽいし。
とくに「いつき」「寺谷」「ヒゲミ」「ナミ」あたりの再現度が激高い。
主人公の「一貴」に関しては、原作では結構整った顔立ちしてるから、もうちょっと何とかならなかったのかとは思ったが、まぁ慣れれば問題ない程度じゃないかな。
でも、4人いるヒロインのうち「いつき」「泉」「藍子」が一貴に興味を持って、惹かれていく場面はある程度描写されてるけど、メインヒロインの「伊織」に関してはそう言ったキッカケ的なものは描写されて無いから、一貴がそうだったように、個人的に伊織も一目惚れというか、一番リアルで自然な「単純に見た目がタイプだったから」好きになった、興味を持ったということで納得してたんだけど、見た目が個性的なあの俳優さんの場合はしっくりこないというか、なんか伊織が実写ver.の一貴に興味を持ち始めるキッカケってのを改めて新規で描いてくれると、原作の補完にもなるし、納得できるんだけどなぁって勝手に偉そうに思ってる。だって物語が始まるまで、一貴と伊織の間には絡みはほぼ無かったはずだから、そこんとこ気になるよね。
確か、ドラマは全13話くらいで、現時点で4話まで放送されている。
とにかくとっても観たい。
しかし、スカパー!契約せんと観られへんねん!!(T ^ T)
なんでNetflixとかAmazonPrimeとかその他動画配信サイトじゃないの!!
すごくガッカリ。
観たい。
でも観られない。
このジレンマを満たすためにまた久し振りに原作全巻読んでしまった。
通常盤全15巻、完全版全12巻全部持ってるからな。
というか実は、俺の本棚の一角に「桂正和コーナー」がある。
「I”s」はもちろんのこと、「電影少女」「ZETMAN」「シャドウレディ」「D・N・A2」「旧ZETMAN」などなど。
桂正和先生は女の子の尻を書かせたら世界一と言われる男だ。
桂正和作品のいいところは、思春期の恋愛において特に欠かせないエロをちゃんと書いてくれる所だ。
少年漫画においては、それが不自然に取り除かれてしまって不自然に綺麗なものになってしまうが、桂先生の作品ではちゃんと当たり前のようにそこにあるから良いのだ。
大人の恋愛にももちろん欠かせないけど。
そもそもエロ=悪・タブーとしてしまっている日本社会が悪い!!それも極端にね。
我々はそのエロから産まれた存在であるにもかかわらず。
話が逸れた。
しかしまぁ思春期の青少年にはぶっちゃけ毒だ。
あの頃は読んでいることがバレたら、死を覚悟しなければならないほどだったから、こっそり集めていたな。ブックオフとかで笑
懐かしい。
思春期は、純粋さとエロが同時に存在できる、奇跡のような時期だった。
各世代に必ずといって良いほどあったであろう、少年誌に載っているエロい漫画。
俺の世代は『I”s』だった。
つい最近で言えば、ToLoveる的なやつ?
これすらも古いか。今はなんなんだろう。
しかし言い訳をさせてもらえれば、桂正和作品はエロい以上に登場人物が純粋でいい子達ばかりで、ストーリーもハラハラドキドキで切なくて泣けるのだ。
風が吹いても勃っていたあの頃の自分にとっては『毒』だったが、絵ではもはや勃たなくなった大人の自分にとってはその純粋で甘酸っぱい物語はむしろ『薬』なのだ。
心が現れるというか、洗われるというか。
読み返すたびに、人を信じることの大切さ、相手を思いやる心を思い出すわけさ。
何回読んだかわからないけど、未だにやっぱりラストは泣けました。
とは言え根本的な解決にはなっていないわけで。
実写ドラマ「I”s」は依然観られない。
そんなこんなで悶々としていると、YouTubeのI”s関連動画のコメント欄に
「電影少女は残念な出来だったけど、これは期待できそう」
的なことが書いてあるのを見つけて、それで知ったんだけど、どうやら電影少女も最近実写化されたらしい。
調べたら、『電影少女2018』だって。
去年じゃん!イギリスに行っている間にそんな事が??!
どうやらAmazonPrimeで観られるみたい!やったー٩( ᐛ )وってんで、早速見た。
一気見した。I”sの代替とばかりにね。
あい役の乃木坂46・西野七瀬さんの大根っぷりが不評を買っていたみたいだけど、正直別に気にならなかった。
むしろ、ちゃんと原作の良さを理解している人、というか好きな人が大切に作り上げた作品なんだなって、作品愛がすごく感じられて嬉しかった。
一応第1話のあらすじをば。
ごく普通の高校生・弄内翔(野村周平)は、親の離婚を機に、絵本作家の叔父・弄内洋太(戸次重幸)の空き家で一人暮らしを始める。学校生活では、翔は同じクラスのマドンナ・柴原奈々美(飯豊まりえ)に恋心を抱いていた。しかし奈々美が想っているのは、翔の親友・古矢智章(清水尋也)。翔の気持ちを知る智章は、奈々美の想いに気づかないふりをしていた。 そんな複雑な恋模様にモヤモヤしていた夜。突然、クローゼットの中から物音が聞こえる。気になって扉を開けると、1本のビデオテープと故障したビデオデッキが…。しかもビデオデッキにはVHSが入ったまま。翔は、デッキを直して再生すると、流れて来たのは天野アイ(西野七瀬)と名乗る女の子の映像。しかも突然、画面から中から飛び出してきて…!翔とビデオガール・アイの3ヶ月に及ぶ奇妙な共同生活が始まる。 (C) 『電影少女 2018』製作委員会
今回の『電影少女2018』は2018とタイトルにあるように、現代を舞台にしたリブート作品だった。
ストーリーは原作をある程度踏襲しつつ、原作の出来事は25年前の過去のこと、ということにして同じ時間軸上に置いて新たなストーリーを紡ぎ出している。ちょうど2006年に細田守監督が手がけたアニメ映画『時をかける少女』のような感じだ。
原作と直接的なつながりがあるというのがとても驚きであり、嬉しい部分でもあった。
原作のメインキャラである「洋太」「もえみ」「貴志」の代わりに、現代の若者3人と「天野あい」が繰り広げる新たな4角関係。90年代と今との価値観や文化の違いをうまく取り入れていて、良い意味で予想を裏切る、また新しい「電影少女」がそこにはあった。
何より貴志やもえみでなく、あそこに「夏美」をブッ込んでくる辺りが卑怯というか、よく分かってるというか、涙腺大崩壊。なぜ酷評されているのか分からないくらい、本当に良かった。
原作を知らない人も純粋に楽しめるはず。
原作を知ってる人にとっても、え、これどうなるの?って先の展開が読めないし、知ってるからこそより楽しめる内容になっている。
興味が出た方は是非AmazonPrimeへ!!
全12話!!
是非原作も読んで観てくだされ!
以上自己満足の投稿でした。
スカパー!契約しようかなぁ。。。。
※Amazon並びに、スカパー!の回し者ではございません。
泥舟。 [独り言]
今なら引きこもりやニートが発生する仕組みの一つがよくわかる。
そうならざるを得ない者の気持ちがわかると言った方がいいか。
いつまでたっても子離れできない、頭のおかしいバカ親がそもそもの原因だ。
子供の人生を自分がどうにかできる、コントロールできるといつまでも思い込んでいる腐った親がそれを作り上げる。
いい加減認めろ、自分が作り上げた作品を。
このダメな息子や娘は自分が作り上げたものだと。
自分たちの教育は失敗したと。
もう悪あがきはやめとけ、みっともない。
もうどうしようもないと、ただその行く末を見守ることしかできないということを認めろ。
そして悔いろ。
過度に干渉をし、その子自身が自ら選択し自らの人生を勝ち取っていく能力を培う機会を、ことごとく奪い続けたことを。
誰かに命令されないと、自らの意思では動くことのできないポンコツ人形を作り上げてしまったことを。
よく、育てた恩とかいうが、それは産んだ方の勝手だろ。
恩着せがましいことこの上ない。
それは一人の人間である。
まずそこに敬意を払え。
親と子に上下関係などない。
確かに生まれたばかりの子は物心着くまでに親や周りの大人の助けを必要とし、その影響を多大に受けるが、だからと言って親より下等な存在でも、ましてや所有物でもない。
強いて言えば、子の方が上位の存在だろう。
新しい価値観や常識を持ち、またそれを作り出せる新しい個体という意味で。
親が子に想いを託すのは勝手だが、多くの場合それは呪いになる。
親は子の人生をダメにすることはできても、良くすることはできない。
良くするのは子自身の仕事だ。
人によってタイミングは違うかもしれないが、あるタイミングで自分の足で立ち上がって歩き出す時が来る。
その後はその子に人生の舵取りは任せるべきだ。
その後もあーでもないこーでもないと口を挟むアホで間抜けな親がいる。
あんたがたの古い物差しじゃ、もう子の人生は測れねぇんだよ。
舵取りを任せるタイミングが難しいのはわかる。
しかし遅くても大学卒業までには任せないとアカンでしょ。
正直言って中卒でいいくらい。
親が干渉すればするほど、子は歪む。
見ろ、この歪みきった姿を。
全部お前のせいだ。
俺はこの歪みを正すためだけに残りの人生を歩むことになるだろう。
それでも親は子のことを思うのは仕方のないこと。
そうかい。なら勝手に想うがいい。
そして何もできずに、我が子が闇に堕ち、沈んでいく姿を眺めればいい。
それが貴方への罰だ。
それよりもさっさと子離れして自分自身の人生を楽しめばいいだろ。
古い人間の思考回路は馬鹿馬鹿しい。
害でしかない。
俺の人生は大学3年の、ちょうど就活の時期にもう終わっている。
初めて自分から人生の舵を切ろうとしたあの時、過干渉によって舵を取り上げられた。
あの時舵取りを死守できなかった自分も当然悪いが、あのクソみたいな干渉がなければ今頃もっとマシだった。
もうこの先俺がどこで野垂れ死のうが、俺の勝手だ。
もう何の関係もいない。
黙って自分の人生見直せよ。
そうならざるを得ない者の気持ちがわかると言った方がいいか。
いつまでたっても子離れできない、頭のおかしいバカ親がそもそもの原因だ。
子供の人生を自分がどうにかできる、コントロールできるといつまでも思い込んでいる腐った親がそれを作り上げる。
いい加減認めろ、自分が作り上げた作品を。
このダメな息子や娘は自分が作り上げたものだと。
自分たちの教育は失敗したと。
もう悪あがきはやめとけ、みっともない。
もうどうしようもないと、ただその行く末を見守ることしかできないということを認めろ。
そして悔いろ。
過度に干渉をし、その子自身が自ら選択し自らの人生を勝ち取っていく能力を培う機会を、ことごとく奪い続けたことを。
誰かに命令されないと、自らの意思では動くことのできないポンコツ人形を作り上げてしまったことを。
よく、育てた恩とかいうが、それは産んだ方の勝手だろ。
恩着せがましいことこの上ない。
それは一人の人間である。
まずそこに敬意を払え。
親と子に上下関係などない。
確かに生まれたばかりの子は物心着くまでに親や周りの大人の助けを必要とし、その影響を多大に受けるが、だからと言って親より下等な存在でも、ましてや所有物でもない。
強いて言えば、子の方が上位の存在だろう。
新しい価値観や常識を持ち、またそれを作り出せる新しい個体という意味で。
親が子に想いを託すのは勝手だが、多くの場合それは呪いになる。
親は子の人生をダメにすることはできても、良くすることはできない。
良くするのは子自身の仕事だ。
人によってタイミングは違うかもしれないが、あるタイミングで自分の足で立ち上がって歩き出す時が来る。
その後はその子に人生の舵取りは任せるべきだ。
その後もあーでもないこーでもないと口を挟むアホで間抜けな親がいる。
あんたがたの古い物差しじゃ、もう子の人生は測れねぇんだよ。
舵取りを任せるタイミングが難しいのはわかる。
しかし遅くても大学卒業までには任せないとアカンでしょ。
正直言って中卒でいいくらい。
親が干渉すればするほど、子は歪む。
見ろ、この歪みきった姿を。
全部お前のせいだ。
俺はこの歪みを正すためだけに残りの人生を歩むことになるだろう。
それでも親は子のことを思うのは仕方のないこと。
そうかい。なら勝手に想うがいい。
そして何もできずに、我が子が闇に堕ち、沈んでいく姿を眺めればいい。
それが貴方への罰だ。
それよりもさっさと子離れして自分自身の人生を楽しめばいいだろ。
古い人間の思考回路は馬鹿馬鹿しい。
害でしかない。
俺の人生は大学3年の、ちょうど就活の時期にもう終わっている。
初めて自分から人生の舵を切ろうとしたあの時、過干渉によって舵を取り上げられた。
あの時舵取りを死守できなかった自分も当然悪いが、あのクソみたいな干渉がなければ今頃もっとマシだった。
もうこの先俺がどこで野垂れ死のうが、俺の勝手だ。
もう何の関係もいない。
黙って自分の人生見直せよ。