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自分のカタチ。 [独り言]

やらない理由ばかり考えている。

デメリットばかり考えている。



変わりたいと言いつつも、変化を恐れて浸り慣れたぬるま湯に甘んじる。

わざわざレールを外れてまで、ここにいる意味は何だ。
たくさんの人と関わりを持って、いろんな人と話して、様々な影響を受けるために、あちこち放浪しているはずだ。



やるための理由を考えろ。

メリットを探すんだまず。


これまでやらずに見逃してきたあの瞬間が、あの機会が、実は人生を大きく変える一瞬だったかもしれないじゃないか。

人生を大きく変える出会いだったかもしれない。




何か一つの出来事で、人生が大きく変わるという話を聞く。
「人生のターニングポイント」というやつだ。

正直一瞬でドラマチックに全てが変わる、なんて夢見たいなシンデレラストーリーは、惹かれるものはあるが、納得はできない。

きっとそれは99%だったものが100%になる瞬間なんだ。
一気に実感に変わる瞬間に過ぎない。

それまでの、99%に至るまでの数々の頑張りや踏ん張りの土台の上に成り立っている。
そう考えれば納得できる。




いきなり100にポーンとなる訳がない。
まぁ、スタートの数字が普通の人より高めに設定されている人もいるかもしれないが、彼らだっていきなり100にはできない。


一度サボれば、数字は一気に下がる。
小さい穴の空いた風船にみたいなもので、放っておけば縮む。
出て行く空気の量より吹き込む空気の量が多い状態を続けて、最終的に割れる瞬間、それがターニングポイントだと考える。


息を吹き込み続けなければ。






人生の意味。
存在の価値。


それは今はわからない。




それは後からでも良い。
自分の人生に名前、タイトルをつけるのは。





最近、ブログが上手く書けない。
以前よりも下手になっていて、書きたかったことが書ききれない。

それはなぜなのか、その原因がわかった気がする。

記事のタイトルを先に書いてしまうからだ。
以前はそんな事はしなかった。
本文からいきなり書き始めていたのに、最近は上から順番に、タイトル、カテゴリー、本文という順番だ。




タイトルに書いたことに影響を受けて、本文に書ける事の幅が狭まる。
俺だけかもしれないが、どうしても一貫性を保とうとしてしまう。
タイトルに書いた言葉の意味が、本来書きたかった事と、たった数ミリの誤差があっただけで内容の方向性にズレが生じる。

まず文章を書いて、誤字脱字や言葉遣いや言い回しを直して整えて、もう一度全体を通して読んで反芻してみて、タイトルはその後でも遅くない。





つまり何が言いたいのかというと、誰かが勝手に決めた順番通りにする必要もないし、自分の存在意義や人生の意味なんてものは、後から勝手についてくるものなんだなという事。

先につけると、少なくとも俺はそれに縛られてしまうし、先入観により制限や限界ができてしまう。
それは良くない。
良い事もあるかもしれないけど。


「俺は犯罪だけは犯さない男だ」とか規定するのは良いだろう。
「一度決めた事は絶対諦めない人だ」とか言い聞かせれば逆にそれを利用できるかもしれない。




でも現金なもので、辛いことやめんどくさい方向に自分を縛るのはとても難しい。
そのルールを守らないための理由や、やらなくて済むような言い訳、デメリットなどを勝手に捏造してしまう。


これは俗にいう「水は低きに流れ、人は易きに流れる」とかいうやつである。
これも一つのタイトル付けみたいなもので、

だからしょうがない、という言い訳に利用できる。

でも元々は孟子の「水の低きに就く如し」という言葉から来ているらしく、元々の意味はどうやら性善説を肯定する時に、その理由というか例えのような感じで「人の本性が善である事は、水が高いところから低いところに流れて行くのと同じように、自然の摂理である」と言いたかったようである。そこから「水が低いところに流れ落ちて行くように、自然の成り行きには逆らえない。あるがままであれ」という意味に転じていった。ネガティブな意味はない。

これを自堕落な誰かがその言い訳として、意味を若干都合よく装飾した言葉が「水は低きに流れ、人もまた易きに流れる」というわけだ。



俺がよく口にする、というか座右の銘といっても良いくらいの言葉は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だ。「自分的には何事もバランスが大事なんだよ」ってことで解釈しているが、なんか言い訳じみて聞こえる時もある。
「鶏口牛後」も大きな相手にチャレンジしないための言い訳に聞こえるし、「急がば回れ」もそう。


「三度目の正直」と「二度ある事は三度ある」とか「善は急げ」と「急いては事を仕損じる」みたいに全く逆のことを言っているような言葉があったり、「情けは人の為ならず」に代表されるような、意味の解釈や認識が人によって異なることわざもある。


結局はさ、なんていうか、自分の解釈次第なんだ。
人生ってのは主観的で、自分が経験できるのは自分の人生だけで、自分が知ることができるのは自分が知れる範囲だけのことで、自分が死ねば世界は終わる。
最終的には自分がその言葉に対して、その出来事に対して、どういう定義づけをするかによって見方が180度変わる、事もある。

自分には一大事でも、他人にとっては地面にこびりついた鳥のフンの跡くらいどうでも良い。
でもその道路を完全に綺麗に保ちたい人にとっては、その鳥のフンの跡ですら我慢のならない事だ。



他人がNoといっても自分にはYesの時もあるしその逆もある。
もちろんそこには常識やルール、法律など、自分の判断ではないところで決められてしまっている事もあるので、事はそう単純ではないけれど、結局は自分次第。心の持ちよう次第。



世間的にはそれに気づくのは遅すぎるだろ、と言われるかもしれないが、自分にとってはこれが最短で、何かにチャレンジするにしても今からでも遅くはないと思えば遅くはないだろう。


最近Netflixでリメイクされた「デビルマン」や昨日見た「22年目の告白 ー私が犯人ですー」という映画も影響しているのだろう。「屍鬼」とか「ガンダム」とかこれまで見てきた、やってきた「相反する二つの正義が激突する」系のアニメやゲームやドラマや映画の影響もある。

見方によってはどちらも正義になり、悪になりうる。
リアルではより複雑で、2つ3つ以上の正義がひしめき合っている。


そんな世の中で、どう自分が生きて行くのか、どう自分を形作って行くのか、非常に難しいところである。
だがそんなものはいつでも変えられるし、そんな形とか云々いっている時点で自分をまた縛ろうとしてるのかもしれない。
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